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ここでは扱っ ていないが、古代の日本語には母音が5つではなくして8つあったという。古代の日本語のカ行は「か・き(甲)・き(乙)・く・け(甲)・け(乙)・こ (甲)・こ(乙)」の区別があった。しかし、ここでは混乱そ避けるために甲乙の区別については、ひとまずふれないでおいた。古代日本語の甲乙の違いについ てはあらためて検証してみることにしたい。 | ここでは扱っ ていないが、古代の日本語には母音が5つではなくして8つあったという。古代の日本語のカ行は「か・き(甲)・き(乙)・く・け(甲)・け(乙)・こ (甲)・こ(乙)」の区別があった。しかし、ここでは混乱そ避けるために甲乙の区別については、ひとまずふれないでおいた。古代日本語の甲乙の違いについ てはあらためて検証してみることにしたい。 | ||
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+ | 本居宣長に『漢字三音考』という著書がある。三 音とは呉音、漢音それに唐音のことである。そのなかで本居宣長は次のように述べている。 | ||
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+ | 「皇國の古音は五十の音を出ず。是天地の純粋正 雅の音のみを用ひて、溷雜不正の音を厠(まじ)へざるが故に。さて如此く用る音は甚少(すくな)けれども。彼此相連ねて活用する故故に。幾千萬の言語成す といへども。足(たら)ざることなく盡ることなし。」 | ||
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+ | 本居之宣長は『古事記傳』を書いた江戸時代の大 国学者である。ところが明治時代になると古代の日本語の母音は五つではなく八つあったことが橋本進吉などによっ て明らかになってくる。古代の日本語の音図を書いてみると次のようになる。 | ||
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+ | ア行 あ い う え お | ||
+ | カ行 か き(甲)・ き(乙) く け(甲)・ け(乙) こ(甲)・ こ(乙) | ||
+ | サ行 さ し す せ そ(甲)・ そ(乙) | ||
+ | タ行 た ち つ て と(甲)・ と(乙) | ||
+ | ナ行 な に ぬ ね の(甲)・ の(乙) | ||
+ | ハ行 は ひ(甲)・ ひ(乙) ふ へ(甲)・ へ(乙) ほ | ||
+ | マ行 ま み(甲)・ み(乙) む め(甲)・ め(乙) も(甲)・ も(乙) | ||
+ | ヤ行 や ― ゆ イ エ よ(甲)・ よ(乙) | ||
+ | ラ行 ら り る れ ろ(甲)・ ろ(乙) | ||
+ | ワ行 わ ゐ ― ゑ を | ||
+ | |||
+ | これは上代特殊假遣の発見とされ、後に日本語が ウラル・アルタイ系統の言語であるとする系統論に有力な示唆を与えることになる。古代日本語ではイ談、エ段、オ段はそれぞれ2種類の漢字が使い分けられて いる。 | ||
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+ | 例えば古事記歌謡では「き」の音に六種類の漢字 が使われている。( )内は回数 | ||
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+ | 岐(150)、 紀(24)、 伎(5)、 棄(1)、 貴(1)、 疑(1) | ||
+ | |||
+ | このうち岐、伎、棄は甲類の単語のみに使われ、 紀、貴、疑は乙類の単語のみに使われている。 | ||
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+ | 甲類:由岐(雪)、淤岐(沖)、登岐(時)、加岐(垣)、美岐 (御酒)、岐美(君)、 | ||
+ | 岐奴(絹)、都婆岐 (椿)、須岐(鋤)、由岐(行き)、那伎(鳴き)、 | ||
+ | 乙類:都紀(月)、紀(木)、 多加紀(高城)、疑理(霧)、阿治志貴(あぢしき)、 | ||
+ | |||
+ | 雪、沖、時な どには甲類の漢字のみが用いられ、乙類の漢字が用いられることはない。また、月、木、霧などには乙類の漢字のみが用いられて、甲類の漢字が用いられること はない。橋本進吉はこのように漢字が使い分けられているのは記紀万葉の時代の日本語に何らかの発音上の違いがあったからに違いないと考えた。甲類、乙類と いうのはいかにも古めかしい命名だが、甲類と乙類のあいだにどのような違いがあったかは分からなかったのでいたしかたない。 | ||
+ | |||
+ | 五十音図は平安時代に作られたものであり、古事 記や日本書紀の時代の音を全部あらわすことができない。例えば、古事記歌謡につぎのような歌がある。これを古事記の時代の日本語音に復元すれば次のように なる。 | ||
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+ | 多迦比迦流 比 能美古 夜 須美斯志 | ||
+ | たかひ(甲)か る ひ(甲)の(乙)み(甲)こ(甲) やすみ(甲)し し | ||
+ | |||
+ | 和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 | ||
+ | わがおほき(甲)み(甲) あらたまの(乙) と(乙)しがき(甲)ふれば | ||
+ | |||
+ | 阿良多麻能 都紀波岐閉由久 宇倍那宇倍那 | ||
+ | あらたまの(乙) つき(乙)はき(甲)へ(乙)ゆく うべ(乙)なうべ(乙)な | ||
+ | |||
+ | 岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 | ||
+ | き(甲)み(甲)まちがたに わがけ(甲)せる おすひ(甲)の(乙)すそ(甲)に | ||
+ | |||
+ | 都紀多多那牟余 | ||
+ | つき(乙)たたなむよ(乙) | ||
+ | |||
+ | この歌は現代の五母音で読むと次のようになる。 | ||
+ | |||
+ | 高光る 日の御子 やすみしし | ||
+ | 我が大君 あらたまの 年が来 経(ふ)れば | ||
+ | あらたまの 月が来経(へ)ゆ く うべなうべな | ||
+ | 君待ちがたに 我が着(け)せ る 襲(おすひ)の裾に | ||
+ | 月立たなむよ | ||
+ | |||
+ | 古代日本語の 母音の甲乙はどのような違いがあったのだろうか。橋本進吉も、その二種類の別は何等かの発音上の差異にもとづくことが推定される、としているだけでその違 いを解明するには至っていない。大野晋は岩波古語辞典で記紀万葉における甲乙の音を弁別しているが、その音価については、き(甲)ki、き(乙)kï、け(甲)ke、け(乙)kë、こ(甲)ko、こ(乙)köと示すだけで、その音価については明言をしていな い。 | ||
+ | |||
+ | 古事記歌謡におけるイ段の甲乙に使われている漢 字はつぎのとおりである。( )内は濁音 | ||
+ | |||
+ | き(甲):岐、伎、棄、(藝、岐) | ||
+ | き(乙):紀、貴、疑、(疑) | ||
+ | |||
+ | ひ(甲):比、(毘) | ||
+ | ひ(乙):斐、肥、(備) | ||
+ | |||
+ | み(甲):美、弥、 | ||
+ | み(乙):微、味、 | ||
+ | |||
+ | 甲類の漢字音も乙類の漢字音も現代の日本漢字音 では同じである。甲乙の違いは中国語音の違いに依拠しているものと考えてみる。まず、き(甲)とき(乙)について中国語の四声を調べてみると、次のように なる。 | ||
+ | |||
+ | き(甲): 岐(上)、伎(上)、棄(去)、藝(去)、 | ||
+ | き(乙): 紀(上)、貴 (去)、疑(平)、 | ||
+ | |||
+ | き(甲)にもっとも多く使われている「岐」も、 き(乙)にもっとも多く使われている「紀」もともに上声であり、古代日本語の甲乙の違いは中国語音の声調の違いに依拠したものではないことが分かる。 | ||
+ | |||
+ | 次にこれらの漢字の古代中国語音は白川静の『字 通』、藤堂明保の『学研漢和大辞典』などによって推定すると次のようになる。 | ||
+ | |||
+ | き(甲):岐[gie]、 伎[gie]、 棄[khiei]、 藝[ngiai]、 | ||
+ | き(乙):紀[kiǝ]、 貴[kiuǝi]、 疑[ngiǝ]、 | ||
+ | |||
+ | ひ(甲):比[piei]、毘[phiei]、 | ||
+ | ひ(乙):斐[phiuǝi]、肥[biuǝi]、備[buǝi] | ||
+ | |||
+ | み(甲):美[miei]、弥[miai]、 | ||
+ | み(乙):微[miuǝi]、味[miuǝi]、 | ||
+ | |||
+ | 乙類の漢字には、あいまい母音の[ǝ]が含まれていることがわかる。もうひとつの特徴として乙類 の漢字音は[-u-]介音を含んだものが多いということで ある。ひ(乙)、み(乙)は明らかに合音である。き(乙)についても「貴」は合音であり、「疑」も鼻音であり、唇は閉じられている。 | ||
+ | |||
+ | き(甲)とき(乙)の違いについてさらにその特 徴を現代の北京語音、広東語音、朝鮮語音で調べてみると次のようになる。 | ||
+ | |||
+ | 甲類 乙 類 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | 北京音 | ||
+ | |||
+ | 広東音 | ||
+ | |||
+ | 朝鮮音 | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | 北京音 | ||
+ | |||
+ | 広東音 | ||
+ | |||
+ | 朝鮮音 | ||
+ | |||
+ | 岐(152) | ||
+ | |||
+ | qi | ||
+ | |||
+ | keih | ||
+ | |||
+ | ki | ||
+ | |||
+ | 紀(24) | ||
+ | |||
+ | ji | ||
+ | |||
+ | gei | ||
+ | |||
+ | ki | ||
+ | |||
+ | 伎(5) | ||
+ | |||
+ | ji | ||
+ | |||
+ | geih | ||
+ | |||
+ | ki | ||
+ | |||
+ | 貴-(1) | ||
+ | |||
+ | gui | ||
+ | |||
+ | gwai | ||
+ | |||
+ | kwi | ||
+ | |||
+ | 棄(1) | ||
+ | |||
+ | qi | ||
+ | |||
+ | keih | ||
+ | |||
+ | ki | ||
+ | |||
+ | 疑(5)- | ||
+ | |||
+ | yi | ||
+ | |||
+ | yih | ||
+ | |||
+ | ui | ||
+ | |||
+ | 藝(18) | ||
+ | |||
+ | yi | ||
+ | |||
+ | ngaih | ||
+ | |||
+ | ui | ||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | |||
+ | ( )内の数字は使用頻度をあらわす。 | ||
+ | |||
+ | 日本語、朝鮮語ではき(甲)・き(乙)の区別はほとんどつかないが、北京音では甲類のほ とんどが(qi)であり、乙類では(ji)が 多い。現代の漢字音は古代の漢字音の変化してきたものであり、古代の発音の違いの痕跡を留めているものと思われる。現代の漢字音では音符の「支」はカ行 (技、岐、伎など)で読むものとサ行(枝、支)で読むものがあるがカ行音のほうが古い。日本で出土した稲荷山鉄剣の銘にある「獲加多支鹵」は「わかたけ る」と「支」を支(け)とカ行で読む。 | ||
+ | |||
+ | 岐の類と紀の類の差異については『韻鏡』などの 韻書をみても必ずしも明らかでないが、現代の北京語音では差異が明らかである。現代語音の差異は唐の時代の差異を何らかの形で反映しているはずである。森 博達は『古代の音韻と日本書紀の成立』のなかでき(甲)・き(乙)の違いを重紐、つまり中舌的拗音(ï)と前舌的拗音(i)の差異に求めている。いずれにしてもき(甲)・き(乙)の違いは主母音の違いによるものではなく、介音の 違いであり、介音の違いが後に北京語音では頭子音に影響を与えたものと考えられる。 | ||
+ | |||
+ | これらのこと を綜合すると古代日本語における岐の類と紀の類の違いは母音の側よりもむしろ頭子音またはわたり音(介音)にあるのではないかと思われる。従来橋本進吉、 有り坂秀世、大野晋などの国語学者は古代の日本語には母音が八つあったとしているが、古代の日本語も主母音は五つであり、介音の影響で拗音(i)あるいは合音(u)になり、やがてそれが頭音に影響を及ぼして摩擦音 あるいは破擦音になったのではあるまいか。「支」の古代音がカ行からサ行に転移していった事実はそのことを裏づけているように思われる。 | ||
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+ | 古代日本語には二重母音はなかった。古代日本語 には二重母音を避ける工夫がみられる。我家(わぎへ)、我妹(わぎも)、などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、妹(imo)の語頭の母音が二重母音になることを避けている。 吾が思ふ妻(あがもふつま)なども吾が(waga)の最後の母音と思う(omoufu)の語頭の母音とが二重母音になることを避けてい る。 | ||
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+ | しかし、ヤ行はi介音を含む音節であり、ワ行はu介 音を含む音節であった。青(あを)、岡(をか)、乙女(をとめ)、尾(を)、猪(ゐ)、居(ゐ)る、枝(イエだ)、末(すゑ)、植(うゑる)などは現在で はア行に統合われているが、ヤ行、ワ行のことばであった。また、「我」は古代日本語では我(われ)でもあり我(あれ)でもあった。現代の日本語ではi介音あるいはu介音が失われている。 | ||
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+ | これと同じことが古代日本語の甲乙についても起 こったに違いない。古代日本語には母音が八つあったのではくて、ア行以外の行にも拗音や合音があったと考えるべきであろう。古代日本語でも母音は五つで あったと考えれば、現代の日本語ではわたり音(i介音、u介音)が失われたということになる。 |
2017年4月15日 (土) 13:31時点における版
灵峰寺(りんふんち)イカウ/ハナゾノ
八里街(ぱつりかい)ウタガキ/ハチリカイ
水月庵(しぅいにつおぁん)イカウ/ハナゾノ
时雨殿(しいてぃん)ウタガキ/ハチリカイ
渡月桥(とぅにつきゅう)トガツ/アマノガワ
落柿舍(ろくししぇ)ユンジマ
永远亭(うぃんいんてぃん)カテイ
清凉寺(ちんりょんち)チョウケイ
滴翠亭(てきちぅいてぃん)チョウケイ
藕香榭(ごうひょんちぇ)チョウケイ
凹晶馆(あうちんくん)チョウケイ
蓼风轩(りゅうふんひん)チョウケイ
芦雪庵(るりつおぁん)チョウケイ
栊翠庵(るんちぅいおぁん)チョウケイ
浣葛山庄(わんこぁつしぁんちぉん)チョウケイ
蘅芜院(ほんむいん)チョウケイ
稻香村(とうひょんちん)チョウケイ
秋爽斋(ちぉうしぉんちぉい)チョウケイ
潇湘馆(りゅうりょんくん)チョウケイ
暖香坞(にんひょんう)チョウケイ
榆荫堂(いいぉむとん)チョウケイ
沁芳闸(ちんふぉんちぁぷ)チョウケイ
缀锦楼(ちぅいこむろう)チョウケイ
葬花冢(ちぉんふぁちぅん)チョウケイ
翠樾埭(ちぅいいつとい)チョウケイ
凸碧山庄(あうぴぇきしぁんちぉん)チョウケイ
翠烟桥(ちぅいいんきゅう)チョウケイ
嘉萌堂(かむんとん)チョウケイ
大观楼(たいくんろう)チョウケイ
芭蕉坞(ぱちゅうう)チョウケイ
怡红院(いふんいん)チョウケイ
紫菱洲(ちりんちぉう)チョウケイ
红香圃(ふんひょんぷ)チョウケイ
蓼汀花溆(りゅうてぃんふぁちゅう)チョウケイ
荼蘼架(とぅみか)チョウケイ
青埂峰(ちんこんふん)チョウケイ
柳叶渚(ろういぷち)チョウケイ
杏叶渚(はんいぷち)チョウケイ
荇叶渚(はんいぷち)チョウケイ
木渎(むくとく)チョウケイ
秫香楼(ろつひょんろう)チョウケイ
沁芳溪(ちんふぉんけい)チョウケイ
毗陵驿(ぴりんいぇき)カテイ
篦箕巷(ぴきほん)カテイ
梨香院(りひょんいん)チョウケイ
会芳园(ういふぉんいん)チョウケイ
绛芸轩(こんうんひん)チョウケイ
芍药圃(しゅういぉくぷ)チョウケイ
缀云峰(ちぅいうんふん)カテイ
梧竹幽居(んちぉくようき)カテイ
香洲(ひょんちぉう)カテイ
乐游原(ろくよういん)カテイ
青枫浦(ちんふんぷ)ヨウフウ
太秦(たいちん/うずまさ)イカウ
东风(とぅんふん/あゆ/こち)シノノメ
南风(なむふん/はえ)ユンジマ
横塘(わんとん)ユンジマ
鹿门山(ろくむんしぁん)カテイ
冰泉(ぴんちん)ユンジマ
鉴湖(かんふ)カテイ
百草园(ぱくちぉういん)カテイ
三味书屋(らむみしうく)カテイ
皇甫庄(うぉんぷちぉん)カテイ
太液池(たいいぇきち)イカウ
兰池宫(らんちくん)イカウ
瀛台(いんとい)イカウ
清晏舫(ちんいんふぉん)カテイ
烟雨楼(いんいろう)シノノメ
湛清轩(ちぁむちんひん)カテイ
竹林院(ちぅくらむいん)カテイ
采菱渡(ちぉいりんとぅ)チョウケイ
知鱼矾(ちにふぁん)イカウ
观莲所(くんりんろ)チョウケイ
含晖楼(はむふぃろう)チョウケイ
万花阵(まんふぁちぁん)イカウ
凤麟洲(ふんりんちぉう)イシハマ
红石谷(ふんしゃくくく)ウタガキ
方丈洲(ふぉんちょんちぉう)カモヤ
芷箐苑(ちちんいん)イシハマの鳳麟洲
沉香亭(ちぁんひょんてぃん)イシハマの鳳麟洲
吟霜斋(いんしぉんちぉい)イシハマの鳳麟洲
云岘馆(うんきんくん)イシハマの鳳麟洲
聚窟洲(きくちぉう)カモヤ
ノーウッド(のううっど)英語のイカウ/Icaw
潋滟堆(りんいんとぅい)イシハマの鳳麟洲
碧桐书院(ぴぇきとぅんしいん)イシハマの鳳麟洲
水竹居(しぅいちぅくき)イシハマの鳳麟洲
水榭居(しぅいちぇき)イシハマの鳳麟洲
十光湖(しぁぷこんふ)イシハマの鳳麟洲
绿湖(るくふ)イシハマの鳳麟洲
上林苑(しょんらむいん)カモヤ
蒯池(ふぁいち)チョウケイ
神明台(しんみんとい)イシハマの鳳麟洲
承露盘(しんるぷん)イシハマの鳳麟洲
扶荔宫(ふれいくん)チョウケイ
贯月槎(くんにいつちぉ)トガツ
水云榭(しぅいうんき)イシハマの鳳麟洲
霁月(ちぇいにいつ)トガツ
壶梁(ふりょん)カモヤ
线法山(りんふぁつしぁん)イカウ
渊薮(いんろう)シノノメの潏雲洲
花萼相辉楼(ふぁがくりょんふぃろう)イシハマの鳳麟洲
云林馆(うんらむくん)イシハマの鳳麟洲
渐台(ちむとい)イシハマの鳳麟洲
(上古音があり)
曲江池(コグクロングダール)
琼华(グヱングクウラー)
虞渊(グヮキーン)
昆明池(クーンムランダール)
涵秋馆(グームスコーン)
阊门(トヤングムーン)
寒碧山庄(ガーンプラグスレーンブレーン)
濠濮亭(ガーウポーグデーン)
(新しい假名遣があり)
清风池馆(ちんふぇんち)
济仙亭(じせんてぃん)
小桃坞(しゃうたうう)
闻木樨香轩(わんむししゃんしゅゑん)
甪直(るつ)
澄碧湖(たんびふ)
觅句廊(みじゅゐゆゑん)
千灯(ちぇんだん)
寄啸山庄(じしゃうさんずゎん)
同里(とんり)
西泠(しりん)
阳澄湖(やんだんふ)
杨林塘(やんりんたん)
七浦塘(ちぷたん)
枫木坪(ふぇんむぴん)
青草塥(ちんつぁうが)
南浔(なんしゅゐん)
谯楼(ちゃうろう)
孤山(ぐさん)
湖心亭(ふしんてぃん)
古事記、日本書紀、万葉集等は、又片仮名や平仮名が出來る前に書かれたものだから漢字だけで書かれている。
古事記は音と 訓を併用して日本式に書かれている。日本書紀は漢文で書いた日本史である。古事記、日本書紀には、それぞれ120首あまりの古代歌謡が記録されていて、そ れらは漢字の音だけを使って書いてあるので、古代の日本語音がどのようなものであったか復元するには貴重な資料となる。万葉集は音と訓を併用して日本語の 歌を表記したものである。万葉集も歌以外の本文は漢文で書かれている。
漢字はいうま でもなく、中国語を表記するために作られたものであり、外国語を書くのには適した文字とはいえない。例えば、ワシントン、ニューヨーク、ボストン、フィラ デルフィアなどのような外国の地名を漢字だけで表記しようとすると、かなり無理を強いられることになる。貨盛頓、紐約、波士頓、費城などとなる。
カナ以前の時代に漢字だけで日本語を表記した史 (ふひと)たちは、漢字という中国語を表記するために作られた文字を手なづけて日本語という中国語とはまったく違った音韻構造をもったことばを表記するの に悪戦苦闘したにちがいない。
漢字は表意文 字であり、アルファベットは表音文字だといわれる。しかし、大部分の漢字には声符というものがあって読み方がある程度わかるように工夫されている。たとえ ば貨盛頓は「化成屯」が声符である。同じように紐約は「丑勺」、波士頓は「皮士屯」、費城「弗成」が声符である。もっともフラデルフィアの場合の「城」は 音読みではなく、意味をとったもので、いわば訓である。
この章では主に古事記、日本書紀の歌謡に使われ ている漢字をたよりに古代日本語音の復元を試みることにする。
次の歌は戦時中に大和魂を鼓舞する歌としてもて はやされた歌であるが、古事記と日本書紀にほぼ同じ歌があってそれぞれ次のような漢字で書かれている。
美都美都斯 久米能古良賀 加岐母登爾 宇恵志波士加美 久知比 比久 和禮波和須禮士 曾泥米都那藝弖 宇知弖志夜麻牟(古事記)
瀰都瀰都志 倶梅能故邏餓 介耆茂等珥 宇恵志破餌介瀰 勾致 弭比倶 和例破涴輸例孺 于智弖之夜莽務 (日本書紀)
この歌は漢音 でも呉音でも読めない。これらの漢字音は8世紀、唐の時代の漢字音に依拠しているものと思われる。しかし、同じ唐の時代といっても長安の都の発音と江南地 方の発音では異なる。日本漢字音は長安の漢字音に依拠しながらも、江南地方の発音の影響をかなり受けているようである。そればかりでなく、日本漢字音には 和音なまりが、かなり入っていると思わなければならない。英語の発音でもイギリス英語とかアメリカ英語といっても、日本人が発音すればfやv、thの発音などはジャパニーズ・イングリッシにならざ るをえない。それと同じように、日本漢字音は日本語化した漢字音であると思わなければならない。
古事記の歌は一般に次のように読み下されてい る。
みつみつし 久米の子らが 垣下(かきもと)に 植えし椒(はじ かみ) 口ひびく 我は忘れじ 撃ちてし 止まむ
この歌は久米歌と呼ばれ、古代の久米部が伝承し た戦闘歌謡である。久米部というのは宮廷の警備などを担当した部である。久米(くめ)というのは軍(ぐん)に由来する弥生音であろう。
唐の時代の中国語音と現代の中国語音ではかなり 違ってしまっている。そのうえ日本語のほうも、8世紀の日本語と現代の日本語ではまったく違ってしまっているので、記紀歌謡の解読はマトリックスを解くよ うな作業にならざるをえない。
美(○み・×び)、 都(○つ・×と)、 久(○く・×きゅ う)、能(○の・×の う)、 良(○ら・×りょ う)、岐(○き・×ぎ)、 母(○も・×ぼ)、 登(○と・×と う)、 爾(○に・×じ)、 恵(○ゑ・×え)、 波(○は・○わ)、 士(○じ・×し)、 禮(○れ・×れ い)、泥(○ね・×で い)、米(○め・×べ い)、藝(○ぎ・×げ い)、 牟(○む・×ん)、 瀰(○み・×び)、 梅(○め・×ば い)、介(○か・×か い)、 等(○と・×と う)、珥(○に・×じ)、 餌(○じ)、 弭(○び)、 例(○れ・×れ い)、 涴(○わ・×わ ん)、輸(○す・×ゆ)、 孺(○ず・×じゅ)、 莽(○ま・×ぼ う)、
日本語の音節 は子音ではじまり母音でおわる、いわゆる開音節である。それに対して中国語の音節は子音ではじまり母音がつづき、韻尾にまた子音がくることもある。また、 頭子音と母音のあいだにわたり音(介音)が入ることもある。そのうえそれぞれの音節は四声という声調をもっている。日本語アクセントは「雲」と「蜘蛛」の ように二音節なまたがるが、中国語の声調はひとつの音節のなかで完結する。
例えば「良」の現代北京音は良(liang)である。それが「久米能古良賀」(古事記)では良 「ら」に使われている。「良」の唐代の中国語音は良[liang]だっ たと考えられている。中国の韻書である切韻では「良」は「離陽切・陽韻・平下声)とされている。つまり、頭子音は離と同じであり韻は陽である。そして、声 調は平声である。また、『韻鏡』では声母は「来」、韻尾は陽韻四等・平声とされている。四等というのは直音ではなく拗音であることを示している。拗音であ るはずの「良」がなぜ、古事記では直音に使われているのであろうか。漢和辞典を調べてみると「良」の呉音は良(ろう)、漢音は(りょう)とされている。旧 仮名使いで書くと呉音は良(らう)、漢音は良(りゃう)ということになる。
前にも述べたごとく日本語は開音節であり中国語 の韻尾[-ng]にあたるような音はないから韻尾が脱落して、古事 記では良(ら)となったのであろう。ちなみに「良」の現代語音は北京音良(liang)、広東音は良()、朝鮮漢字音は語頭では良(yang)、語中では良(liang)となる。また、同じ漢字文化圏であるベトナムの漢 字音は良(luong)である。中国漢字音でi介音が発達してきたのは隋の時代だとされており、 特に南部の越南や広東方面はi介音の発達が弱く、また遅かったようである。古事 記歌謡で「久米能古良賀」を「くめのこらが」と読ませているのは、随の時代の漢字音の残影であり、あるいは南方の漢字音の影響であると考えられる。
久米歌を例に記紀歌謡の漢字音を分析してみると 概略つぎのようになる。
1.二重母音や拗音などはない。
良(○ら・×りょ う)、久(○く・×きゅ う)、能(○の・×の う)、登(○と・×と う)、 等(○と・×と う)、莽(○ま・×ぼ う)、禮(○れ・×れ い)、泥(○ね・×で い)、 米(○め・×べ い)、藝(○ぎ・×げ い)、介(○か・×か い)、例(○れ・×れ い)、 孺(○ず・×じゅ)、
古代日本語には二重母音はなかった。
2.濁音は清音、鼻音などで発音されている。
美(○み・×び)、 母(○も・×ぼ)、 瀰(○み・×び)、 梅(○め・×ば い)、 米(○め・×べ い)、泥(○ね・×で い)、莽(○ま・×ぼ う)、
古代日本語では語頭に濁音がくることはなかっ た。現代の朝鮮語でも濁音は語頭にくることはない。この点では、古代日本語は朝鮮語と同じ特徴をもっていたことになる。
現代の日本語 ではバ行はハ行の濁音であるが、古代日本語ではバ行はマ行の濁音でもある。また、ナ行の濁音はダ行である。これは五十音図の考え方とはことなる。五十音図 は平安時代に円仁らの留学僧が中国でサンスクリットの音韻学を学び、それを日本語に応用してつくったものである。古代日本語の音韻構造は次のようになる。
清 音
鼻 濁 音
濁 音
ハ 行
マ 行
バ 行
タ 行
ナ 行
ダ 行
3.母音が変化している場合がある。
都(○つ・×と)、 梅(○め・×ば い)、
都(つ)はウ段であり、都(と)はオ段である。 記紀歌謡では「都」は都磨(つま=妻)などに使われているが、「阿都圖唎(あとどり=足取り)」(記96)のようにオ段に使われている例もある。記紀歌謡 で「つ」「と」に使われている漢字には次のようなものがある。
【つ】 都、覩、菟、途、屠、豆、逗、 【と甲】斗、土、杜、刀、度、 渡、徒、妬、圖、都、
古代日本語のウ段とオ段甲とは音が近かった。
梅(め)は古代日本語ではエ段乙であるが、現代 の日本語では二重母音になってア段に転移している。記紀歌謡で「め乙」に使われている漢字には次のようなものがある。
【め乙】梅、毎、妹、昧、米、迷、
「め乙」に使われている漢字はすべて「マイ」あ るいは「メイ」のように二重母音になっている。
4.頭子音が変化している場合がある。
爾(○に・×じ)、 珥(○に・×じ)、 餌(○じ)、 弭(○び)、
爾、珥、餌、弭、はいずれも中国音韻学で日母と 呼ばれる文字で「日」と同じ頭音をもっている。唐代漢字音は爾[njiai]、珥[njiə]、餌[njiə]、弭[mie]である。日母は中国語のなかでも歴史的変化のはげ しい音で、現代の北京語では爾(er)、餌(er)、日(ri)などとなっている。また、朝鮮漢字音では爾(i)、餌(i)、日(il)である。恐らく唐代以前には弭[mie]のような音だったものが[-i-]の影響で口蓋化して唐代には珥[njiə]になり、さらに餌[djiə]に変化したものと考えられる。記紀歌謡の漢字音について みると、弭 (び)は唐代以前の音の痕跡を留めており、珥(に)は唐代中国語音に準拠したものであろう。餌(じ)は唐代にすでにはじまっていた音韻変化を先取りしたも のといえる。
ちなみに、日本語の耳(みみ)は唐代以前の中国 語音である耳[mie]に依拠した弥生音である可能性がある。
5.ア行音、ヤ行音、ワ行音の区別がある。
恵(○ゑ・×え)、 波(○は・○わ)、
現代の日本語ではア行の「え」とワ行の「ゑ」の 区別は失われてる。しかし、記紀の時代にはア行の「え」とワ行は区別されていた。
宇恵志波士加美(古事記)、宇恵志破餌介瀰(日本書紀)、
「植ゑし椒(はじかみ)」の「恵」はワ行専用で ある。「ゑ」には日本書紀では「恵」が、日本書紀では「恵」ほか「慧」「衞」「隈」が使われている。
「和礼波夜恵奴=我はや餓ぬ」「宇恵具佐=植草」「由恵=故」 「須恵=末」「和礼恵比邇 祁理 =我酔ひにけり」「恵具志=笑酒」(古事記)、
「伊比爾恵弖=飯に餓て」「喩衞=故」「須衞=末」「須慧= 末」「和例破椰隈怒=我はや 餓 ぬ」(日本書紀)、
記紀の時代にはワ行の「ゑ」のほかにヤ行の 「え」もあった。五十音図にはヤ行の「え」に相当するカナはないから便宜上「イエ」と表記することにする。「イエ」には古事記では「延」が使われ、日本書 紀では「曳」「延」が使われている。
「奴延=鵼」「奴延久佐=萎草」「佐加延=栄」「延=兄」「延= 枝」「岐許延=聞こゑ」 「延=江」「美延斯怒=み吉野」 「美延受=見ゑず」(古事記)
「延=枝」「瀰曳泥麼=見ゑねば」「曳=枝」 「曳=江」「枳虚曳=聞こゑ」「多曳磨=絶ゑば」 「波曳=栄(はゑ)」「曳陁=枝」「府曳=笛」「古曳底=越ゑて」(日本書紀)
古代日本語には二重母音はなかったがえ(e)とゑ(we)、イエ(ye)などの入りわたり音(y/w)はあったということになる。されに「波」「破」は 語頭では波・破(は)と読まれ、語中では波・破(わ)と読まれていた。
宇恵志波(は)士加美 和禮波(わ)和須禮士(古事記) 宇恵志破(は)餌介瀰 和例破 (わ)涴輸例孺(日本書紀)
語頭の「わ」は「和」「涴」などで表記され 「波」「破」で表記されることはない。このような例を音韻学では相補分布という。古代日本語では「わ」は「は」の異音である。
現在の朝鮮語はハングル表記で濁音と清音を区別 しない。同じpaの音でも語頭に来れば「は」であり、語中では 「ば」と読む。例えば「小林」はハングルでは小林(kopayashi)と表記して小林(こばやし)と読み、林は林(payashi) と表記して林(はやし)と読む。朝鮮語のでは濁 音は語頭に現われることがなく、清音が語中では濁音に発音されるという相補分布をしているからである。朝鮮語では「ば」は「は」の異音である。
6.「ん」という音はなく「む」と表記したいる。
牟・務(○む・×ん)、
古代の日本語には「ん」という音節はなかった。 五十音図の最後に「ん」があるのはサンスクリット語の音図の最後にある[-m]にならったものである。日本語でも阿吽の呼吸と か、「コマイヌサン ア ウン」などというが、サンスクリットと音図は[a]ではじまり、半母音の[m]で終わる。ここで半母音というのは[m]は子音であるが、それ自体で音節を構成することが できるという意味である。古代日本語では「ん」ではひとつの音節を構成することができなかったので「うん」とした。梅、馬などが梅(うめ)、馬(うま)と なったのも、古代日本語では[m]が単独では音節を構成することができなかったから である。 宇知弖志夜麻牟(古事記)、于智弖之夜莽務(日本書紀)は現代日本語では「撃ちてし止まん」となる。これは現代の日本語が[m]あるいは[n]をひとつの音節(モーラ)とみなすようになったか らである。
7.撥音便(ん)ななく、韻尾が脱落している。
涴(○わ・×わ ん)
日本語には[-n]あるいは[-m]で終わる音節はなかった。日本書紀では久米歌に 「涴(わ)」が使われている。古事記では同じ場所に「和」が使われている。
和例破涴輸例孺(日本書紀)、 和禮波和須禮士(古事記)、
古事記歌謡ではこのほかに存、傳、が使われてい る。日本書紀では絆、煩、鐏が使われている。しかし、いずれの場合も韻尾の[-n]は脱落している。
許存許曾波= 今夜こそは、多麼傳=玉手、淤母比傳=思い出、伊傳多知=い出立ち、 比傳流 =日照る、弁=辺(べ)、本=火(ほ)、麻本呂婆(まほろば)、 邇本抒理 (に ほ鳥)、本牟多(ほむ た)、本斯(欲し)、志本=塩、遠=を、遠=(を)、 遠登賣=乙女、阿遠夜麻=青山、遠=男(を)、(古事記)、 絆=は、塢等綿=乙女、泮娜= 肌、異泮梅=云はめ、幡=は、廼煩例屢=登れる、 去鐏去曾 =今夜こそ(日本書紀)、
また、記紀歌謡では入声音(韻尾が-p、-t、-k、で終わる漢字音)も使われているが、いずれも韻 尾の子音は脱落している。
憶(お)、乙(お)、吉(き)、賊(そ)、必(ひ)、末(ま)、 楽(ら)、
8.頭子音が残存しているものがみられる。
輸(○す・×ゆ)、
日本書紀歌謡では「輸」が「す」に使われてい る。
和例破涴輸例孺(日本書紀) 和禮波和須禮士(古事記)
漢和辞典を調べてみると「輸」は呉音「す」、漢 音「しゅ」、慣用「ゆ」となっている。日本書紀の用法が本来のものでる。現代の北京音では輸送は輸送(shu-song)である。広東語では輸送(syu-sung)、朝鮮漢字音では輸送(su-song)であり、現代の日本語の輸送(ゆそう)は喩(ゆ) などの連想で頭母音が脱落したものである。
ここでは120首あまりある記紀歌謡のなかから 1首だけをとりあげたに過ぎないが、古代日本語の特徴がいくつか浮かびあがってくる。
ここでは扱っ ていないが、古代の日本語には母音が5つではなくして8つあったという。古代の日本語のカ行は「か・き(甲)・き(乙)・く・け(甲)・け(乙)・こ (甲)・こ(乙)」の区別があった。しかし、ここでは混乱そ避けるために甲乙の区別については、ひとまずふれないでおいた。古代日本語の甲乙の違いについ てはあらためて検証してみることにしたい。
本居宣長に『漢字三音考』という著書がある。三 音とは呉音、漢音それに唐音のことである。そのなかで本居宣長は次のように述べている。
「皇國の古音は五十の音を出ず。是天地の純粋正 雅の音のみを用ひて、溷雜不正の音を厠(まじ)へざるが故に。さて如此く用る音は甚少(すくな)けれども。彼此相連ねて活用する故故に。幾千萬の言語成す といへども。足(たら)ざることなく盡ることなし。」
本居之宣長は『古事記傳』を書いた江戸時代の大 国学者である。ところが明治時代になると古代の日本語の母音は五つではなく八つあったことが橋本進吉などによっ て明らかになってくる。古代の日本語の音図を書いてみると次のようになる。
ア行 あ い う え お カ行 か き(甲)・ き(乙) く け(甲)・ け(乙) こ(甲)・ こ(乙) サ行 さ し す せ そ(甲)・ そ(乙) タ行 た ち つ て と(甲)・ と(乙) ナ行 な に ぬ ね の(甲)・ の(乙) ハ行 は ひ(甲)・ ひ(乙) ふ へ(甲)・ へ(乙) ほ マ行 ま み(甲)・ み(乙) む め(甲)・ め(乙) も(甲)・ も(乙) ヤ行 や ― ゆ イ エ よ(甲)・ よ(乙) ラ行 ら り る れ ろ(甲)・ ろ(乙) ワ行 わ ゐ ― ゑ を
これは上代特殊假遣の発見とされ、後に日本語が ウラル・アルタイ系統の言語であるとする系統論に有力な示唆を与えることになる。古代日本語ではイ談、エ段、オ段はそれぞれ2種類の漢字が使い分けられて いる。
例えば古事記歌謡では「き」の音に六種類の漢字 が使われている。( )内は回数
岐(150)、 紀(24)、 伎(5)、 棄(1)、 貴(1)、 疑(1)
このうち岐、伎、棄は甲類の単語のみに使われ、 紀、貴、疑は乙類の単語のみに使われている。
甲類:由岐(雪)、淤岐(沖)、登岐(時)、加岐(垣)、美岐 (御酒)、岐美(君)、 岐奴(絹)、都婆岐 (椿)、須岐(鋤)、由岐(行き)、那伎(鳴き)、 乙類:都紀(月)、紀(木)、 多加紀(高城)、疑理(霧)、阿治志貴(あぢしき)、
雪、沖、時な どには甲類の漢字のみが用いられ、乙類の漢字が用いられることはない。また、月、木、霧などには乙類の漢字のみが用いられて、甲類の漢字が用いられること はない。橋本進吉はこのように漢字が使い分けられているのは記紀万葉の時代の日本語に何らかの発音上の違いがあったからに違いないと考えた。甲類、乙類と いうのはいかにも古めかしい命名だが、甲類と乙類のあいだにどのような違いがあったかは分からなかったのでいたしかたない。
五十音図は平安時代に作られたものであり、古事 記や日本書紀の時代の音を全部あらわすことができない。例えば、古事記歌謡につぎのような歌がある。これを古事記の時代の日本語音に復元すれば次のように なる。
多迦比迦流 比 能美古 夜 須美斯志 たかひ(甲)か る ひ(甲)の(乙)み(甲)こ(甲) やすみ(甲)し し
和賀意富岐美 阿良多麻能 登斯賀岐布禮婆 わがおほき(甲)み(甲) あらたまの(乙) と(乙)しがき(甲)ふれば
阿良多麻能 都紀波岐閉由久 宇倍那宇倍那 あらたまの(乙) つき(乙)はき(甲)へ(乙)ゆく うべ(乙)なうべ(乙)な
岐美麻知賀多爾 和賀祁勢流 意須比能須蘇爾 き(甲)み(甲)まちがたに わがけ(甲)せる おすひ(甲)の(乙)すそ(甲)に
都紀多多那牟余 つき(乙)たたなむよ(乙)
この歌は現代の五母音で読むと次のようになる。
高光る 日の御子 やすみしし 我が大君 あらたまの 年が来 経(ふ)れば あらたまの 月が来経(へ)ゆ く うべなうべな 君待ちがたに 我が着(け)せ る 襲(おすひ)の裾に 月立たなむよ
古代日本語の 母音の甲乙はどのような違いがあったのだろうか。橋本進吉も、その二種類の別は何等かの発音上の差異にもとづくことが推定される、としているだけでその違 いを解明するには至っていない。大野晋は岩波古語辞典で記紀万葉における甲乙の音を弁別しているが、その音価については、き(甲)ki、き(乙)kï、け(甲)ke、け(乙)kë、こ(甲)ko、こ(乙)köと示すだけで、その音価については明言をしていな い。
古事記歌謡におけるイ段の甲乙に使われている漢 字はつぎのとおりである。( )内は濁音
き(甲):岐、伎、棄、(藝、岐) き(乙):紀、貴、疑、(疑)
ひ(甲):比、(毘) ひ(乙):斐、肥、(備)
み(甲):美、弥、 み(乙):微、味、
甲類の漢字音も乙類の漢字音も現代の日本漢字音 では同じである。甲乙の違いは中国語音の違いに依拠しているものと考えてみる。まず、き(甲)とき(乙)について中国語の四声を調べてみると、次のように なる。
き(甲): 岐(上)、伎(上)、棄(去)、藝(去)、 き(乙): 紀(上)、貴 (去)、疑(平)、
き(甲)にもっとも多く使われている「岐」も、 き(乙)にもっとも多く使われている「紀」もともに上声であり、古代日本語の甲乙の違いは中国語音の声調の違いに依拠したものではないことが分かる。
次にこれらの漢字の古代中国語音は白川静の『字 通』、藤堂明保の『学研漢和大辞典』などによって推定すると次のようになる。
き(甲):岐[gie]、 伎[gie]、 棄[khiei]、 藝[ngiai]、 き(乙):紀[kiǝ]、 貴[kiuǝi]、 疑[ngiǝ]、
ひ(甲):比[piei]、毘[phiei]、 ひ(乙):斐[phiuǝi]、肥[biuǝi]、備[buǝi]
み(甲):美[miei]、弥[miai]、 み(乙):微[miuǝi]、味[miuǝi]、
乙類の漢字には、あいまい母音の[ǝ]が含まれていることがわかる。もうひとつの特徴として乙類 の漢字音は[-u-]介音を含んだものが多いということで ある。ひ(乙)、み(乙)は明らかに合音である。き(乙)についても「貴」は合音であり、「疑」も鼻音であり、唇は閉じられている。
き(甲)とき(乙)の違いについてさらにその特 徴を現代の北京語音、広東語音、朝鮮語音で調べてみると次のようになる。
甲類 乙 類
北京音
広東音
朝鮮音
北京音
広東音
朝鮮音
岐(152)
qi
keih
ki
紀(24)
ji
gei
ki
伎(5)
ji
geih
ki
貴-(1)
gui
gwai
kwi
棄(1)
qi
keih
ki
疑(5)-
yi
yih
ui
藝(18)
yi
ngaih
ui
( )内の数字は使用頻度をあらわす。
日本語、朝鮮語ではき(甲)・き(乙)の区別はほとんどつかないが、北京音では甲類のほ とんどが(qi)であり、乙類では(ji)が 多い。現代の漢字音は古代の漢字音の変化してきたものであり、古代の発音の違いの痕跡を留めているものと思われる。現代の漢字音では音符の「支」はカ行 (技、岐、伎など)で読むものとサ行(枝、支)で読むものがあるがカ行音のほうが古い。日本で出土した稲荷山鉄剣の銘にある「獲加多支鹵」は「わかたけ る」と「支」を支(け)とカ行で読む。
岐の類と紀の類の差異については『韻鏡』などの 韻書をみても必ずしも明らかでないが、現代の北京語音では差異が明らかである。現代語音の差異は唐の時代の差異を何らかの形で反映しているはずである。森 博達は『古代の音韻と日本書紀の成立』のなかでき(甲)・き(乙)の違いを重紐、つまり中舌的拗音(ï)と前舌的拗音(i)の差異に求めている。いずれにしてもき(甲)・き(乙)の違いは主母音の違いによるものではなく、介音の 違いであり、介音の違いが後に北京語音では頭子音に影響を与えたものと考えられる。
これらのこと を綜合すると古代日本語における岐の類と紀の類の違いは母音の側よりもむしろ頭子音またはわたり音(介音)にあるのではないかと思われる。従来橋本進吉、 有り坂秀世、大野晋などの国語学者は古代の日本語には母音が八つあったとしているが、古代の日本語も主母音は五つであり、介音の影響で拗音(i)あるいは合音(u)になり、やがてそれが頭音に影響を及ぼして摩擦音 あるいは破擦音になったのではあるまいか。「支」の古代音がカ行からサ行に転移していった事実はそのことを裏づけているように思われる。
古代日本語には二重母音はなかった。古代日本語 には二重母音を避ける工夫がみられる。我家(わぎへ)、我妹(わぎも)、などは我(waga)の最後の音節の母音と家(ihe)、妹(imo)の語頭の母音が二重母音になることを避けている。 吾が思ふ妻(あがもふつま)なども吾が(waga)の最後の母音と思う(omoufu)の語頭の母音とが二重母音になることを避けてい る。
しかし、ヤ行はi介音を含む音節であり、ワ行はu介 音を含む音節であった。青(あを)、岡(をか)、乙女(をとめ)、尾(を)、猪(ゐ)、居(ゐ)る、枝(イエだ)、末(すゑ)、植(うゑる)などは現在で はア行に統合われているが、ヤ行、ワ行のことばであった。また、「我」は古代日本語では我(われ)でもあり我(あれ)でもあった。現代の日本語ではi介音あるいはu介音が失われている。
これと同じことが古代日本語の甲乙についても起 こったに違いない。古代日本語には母音が八つあったのではくて、ア行以外の行にも拗音や合音があったと考えるべきであろう。古代日本語でも母音は五つで あったと考えれば、現代の日本語ではわたり音(i介音、u介音)が失われたということになる。